中世:ハーブの歴史
ローマ帝国の衰退とハーブ文化の消失
4世紀半ば、ハーブの歴史の中でも多大な影響を与える出来事がありました。
中央アジアの遊牧民であるフン族が東ヨーロッパに侵入したことが、一連の出来事のきっかけでした。この侵入により、当時東ヨーロッパに居住していたゲルマン諸部族に圧力がかかり、多くのゲルマン部族がローマ帝国に避難しようとして流入してきました。
その結果、ローマ帝国内部では政治的混乱、経済的困難、軍事力の低下などが起こり、帝国は外部からの民族大移動に対して脆弱になり、476年、西ローマ帝国が崩壊しました。
その後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は存続し続け、1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落するまで続きました。この出来事により、東ローマ帝国も終焉を迎えました。
これをきっかけに、ローマ帝国が長い間ヨーロッパで開拓してきたハーブ園や果樹園、麦畑などもゲルマン人によって破壊されました。さらに、地に根付いていたローマのハーブ文化までもが失われてしまったのです。
ハーブの歴史を彩る中世の本草学者が残した文献
中世におけるハーブや植物に関する文献は、古代からのハーブの歴史における文献から影響を強く受けています。
中世ヨーロッパでは、ハーブに関する文献が次々と印刷され、これらの多くは古代の本草学者や医師が残した文献に基づいていました。これにより、医療や薬学において重要な役割を果たしました。
それでは、代表的な中世のハーブや植物に関する文献をいくつか紹介しましょう。
文献:Physica-自然学(ヒルデガルト・フォン・ビンゲン) ドイツ
12世紀の修道女である中世最大の賢女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、ハーブ療法や自然治療に関する詳細な記述を残しました。ホリスティック医学の原点とも言われています。
ハーブの歴史の中で多大な影響を与えた修道女の一人であり、彼女の著作『Physica-自然学』は、植物、動物、鉱物の治療特性に関する記述を含み、特にハーブの部分は多くの植物の使用法とその医療効果について詳細に述べています。
これは、医学や薬草・植物学に関する知識を広める上で非常に重要でした。
文献:植物誌(アルベルトゥス・マグヌス) ドイツ
アルベルトゥス・マグヌスは13世紀の神学者、哲学者、自然科学者です。
彼の著作『植物誌』は中世の植物学における重要な文献の一つです。さらに、当時の植物に関する豊富な知識や観察結果が体系的にまとめられており、植物の種類、特徴、用途、栽培方法、医学的な効能などについて詳細に記述されています。
文献:The English Physician(ニコラス・カルペパー)イギリス
イギリス17世紀の本草書家で占星術師のニコラス・カルペパーは薬草と占星術を掛け合わせた治療法で人々を助け癒しを与えた人物とされています。
最も有名な著作は1652年に初版が出版された『The English Physician』、通称『Culpeper’s Herbal』です。カルペパーは薬草の効果を説明する際に占星術を用いました。
ハーブの歴史の中で、占星術とハーブを組み合わせた書はこれが初めてとされています。
彼は各ハーブや植物が特定の惑星と関連していると考え、その惑星の影響によって植物の薬効が決まると主張しました。このアプローチは当時の医学界では異端とされましたが、民間療法や占星術が広く信じられていたため、多くの人々に支持されました。
文献:Praedium rusticum(シャルル・エチエンヌ)フランス
フランスの医学博士で解剖学者でもあり植物学にも貢献したシャルル・エチエンヌ。1554年に書かれたハーブ本『Praedium rusticum』この本は、彼の弟ジャン・リベルとの共著であり、当時の農業、園芸、家畜の飼育、そして薬草の利用についての知識を包括的にまとめた書籍です。
薬用植物に関する情報は特に詳細であり、各植物がどのような疾患に有効かについても触れています。
そして、『Praedium rusticum』は、その実用性と包括的な内容から、16世紀のヨーロッパにおける農業と薬草学医療の発展に大きく貢献しました。
文献:Acetaria: A Discourse of Sallets(ジョン・イーヴリン) イギリス
1699年、イギリスの作家であり園芸家ジョン・イーヴリンの『Acetaria: A Discourse of Sallets』(サラダ論)。ハーブ歴史の中で薬草を食材として書かれた最初のハーブ本として知られています。
また、当時一般的だった調理法とは異なり、新鮮な野菜やハーブを使用することを奨励しています。
さらに、イーヴリンは、サラダにおける野菜やハーブの組み合わせや調味料の使い方について詳しく説明し、栄養価の高い料理としてのサラダの重要性を強調しています。
特に中世のハーブ文献に影響を与えた古代文献としては、ディオスコリデスの『薬物誌』が挙げられます。
原題は『デ・マテリア・メディカ』で、古代ギリシャの医師ディオスコリデスによって書かれました。
中世ヨーロッパでは、この文献がハーブの使用法や薬効に関する主要なハーブの歴史における参考文献として広く用いられました。
中世のハーブ歴史における修道院の役割
中世ヨーロッパのハーブの歴史において修道院にはとても深い関わりがありました。修道院は、ハーブの栽培、医療、薬学の中心地として重要な役割を果たしていました。
知識の保存とハーブ歴史の伝承
修道院は、古代の知識を保存し、次世代に伝える役割も担っていました。
修道士たちは、古代ローマやギリシャの本草書や医学書を写本し、それをもとに自らのハーブに関する知識を深めました。また、修道院で作られたハーブ書は、当時のヨーロッパにおけるハーブ療法の重要な情報源となりました。
特に、ベネディクト会やシトー会の修道士たちは、ギリシャやローマの医師たちの知識をラテン語に翻訳し、それを後世に伝える役割を担いました。
薬草園の管理と研究
多くの修道院には『薬草園(ハーブガーデン)』があり、そこでは様々な薬用植物が栽培されていました。これらの薬草園は、修道士たちがハーブの効能や栽培方法を研究し、実験する場所でもありました。
修道士たちは、薬草の特性や使用方法についての詳細な記録を残し、それを基に新たな植物・ハーブ治療法を開発したのです。
教育と医療の提供
修道院は学問の中心地でもありました。修道士や修道女は、ハーブに関する知識を含む幅広い学問を学びました。修道院付属の学校では、若い修道士や一般の人々にもハーブに関する知識が教えられました。こうした教育活動を通じて、ハーブに関する知識は広く普及します。
また、修道院は地域社会に対する医療提供の中心でもありました。修道士たちは、病気や怪我を治療するための知識と技術を持ち、貧しい人々や旅人に無料で治療を施しました。
彼らはハーブ療法を用い、鎮痛剤、抗炎症剤、消毒剤としてのハーブを処方しました。
農業と栽培技術の向上
修道院は自給自足を目指しており、その一環としてハーブの栽培にも力を入れていました。修道士たちはハーブの栽培方法を工夫し、最適な栽培技術を開発しました。この知識は周辺地域の農民にも伝えられ、ハーブ栽培の技術向上に寄与しました。
この修道院でのハーブ栽培が「ハーバリウム」として知られる中世薬草園の始まりとなったのです。
宗教的および精神的な役割
一部のハーブは宗教儀式や精神的な目的でも使用されました。修道士たちは、ハーブを神聖なものと見なし、その栽培や利用において特別な意義を持たせていました。たとえば、ミントやセージなどのハーブは、清めの儀式や祝祭の際に使用されていたとい言われています。
このように、中世におけるハーブ療法の歴史の発展において、修道院は不可欠な存在でした。
彼らは知識の保存と継承、薬草の栽培と研究、医療提供、教育と訓練、そして著作を通じて、現代の植物療法の基盤を築きました。
修道院の修道士たちの努力と知識は、今日でもハーブ療法の重要な部分として受け継がれています。
キリスト教とハーブ使用制限と禁止令
ローマ帝国の衰退後、キリスト教の教会がヨーロッパ各国の王侯を結びつけ、精神的権威を確立し、強い影響力を持つようになりました。その後、キリスト教会は医療や学問の中心として台頭し、教会の権威に反する治療法や知識は異端と見なされることがありました。
当時の医術の中心は薬草治療であったにも関わらず、「医術は神の意に反する」として、ハーブ使用を制限すると共に、医学的な薬草施療が禁止された時期もあったと言われています。
教会は修道院を中心に医療を行い、そこで使用されるハーブは教会の管理下にありましたが、民間での自由な使用は制限されることがありました。
しかし、この禁止令や制限は長くは続かず、古代から受け継がれてきたハーブ医療の歴史は人々に根強く、ローマ教会の傘下でもあった修道院においてでさえ、人々は公然とハーブや薬草を採集・栽培し続けました。
そのため、ハーブ使用制限や医療の禁令解除を余儀なくされ、撤廃に至りました。
魔女と魔法とハーブ
映画やおとぎ話でよく知られる、『魔女』は本当に存在したのでしょうか?
中世ヨーロッパ、特にドイツでは魔女が盛んに活動していたと知られています。ハーブは、魔女が使用する材料の一つとされ、彼女らが薬草を使って魔法を行ったり、毒薬を調合したりするというイメージが広まりました。一部の薬草は実際に毒性があり、誤った使い方をすれば健康に害を及ぼすことがあるため、これが魔女のイメージと結びついたのかもしれません。
医療者としての魔女
実際には、魔女たちは地域社会で一種の医療者として活動し、薬草やハーブを使った自然療法を提供していたことがありました。彼女らは患者に薬草を与え、病気や傷を治療していました。中世の医療や薬草治療は主に男性の領域でしたが、魔女たちの知識は伝統的な方法や経験に基づいており、それはしばしば女性同士の口頭伝承によって継承されていました。
魔女へ迫害の歴史
薬草やハーブを使う女性(特に独身女性や高齢女性)が魔女として告発されることがありました。彼女たちがハーブの知識を持ち、その利用法を熟知していることは、魔法や悪魔と契約している証拠と見なされることがありました。
さらに、教会は魔女を異端とみなし、魔女狩りとして知られる一連の迫害を行いました。魔女たちは悪魔と契約して超自然的な力を持つと考えられ、その活動を禁止しようとしたのです。
その結果、魔女たちがハーブや薬草を使った治療法も迫害の対象となりました。
中世のハーブ歴史における科学者
魔女とは豊富な薬草学の知識と配合・調理法を駆使し、人を眠らせたり、病気を治したり、また病気にさせたりと様々な奇妙な出来事から、「魔女」と呼ばれ、嫌がれる存在となりました。
彼女たちは、現代でいうところの『科学者』のような存在だったのかもしれません。
芳香ハーブの歴史
中世ヨーロッパでは多くの王朝が興り、その城内には広大な庭園やハーブガーデンが造られ、香り高いハーブが豊かな色彩を添え、上流社会の生活に華を添えました。貴婦人たちはこぞって香りを楽しみ美しくあるためにハーブを愛好していました。
中世の王朝に愛されたハーブ
中世ヨーロッパ、特にイギリスにおいては、上流階級の人々が多様なハーブを愛用していました。
イギリスではデーン王朝をはじめ、さまざまな王朝が築かれてきました。ヘンリー三世(1216-1272年)の時代には、ハーブは香料や料理、医療として幅広く使用されていました。
また、鮮やかなハーブと上品な香りを寝室からも楽しみたいと考えたヘンリー三世は、1251年に宮殿に広大なハーブ園を造営しました。まさに贅沢の極みとも言えるでしょう。
ロンドンの『ハーブ・ウーマン』
中世のロンドンではハーブに対しての関心が集まりました。王朝をはじめ、家庭や教会、建物の周りにはハーブや花で鮮やかに装飾されていたといいます。
また、街中では『ハーブ・ウーマン』と呼ばれるハーブの売り子が、地方から野生ハーブやハーブを使った製品を売っていました。
中世のイギリスでは、ハーブを身に着け、芳香性のハーブを纏って歩きました。また、殺菌作用のあるハーブは家庭や街中で悪臭を防ぐために使われていました。一方で、家庭ではハーブを栽培し、薬草で家族を癒し、料理に風味を加えて堪能していました。
フランス発祥の香り玉:ポマンダー
たびたび中世ヨーロッパを襲った悪疫。この悪疫から逃れるためにハーブが使われていたことはご存じの通りです。ここで登場するのが『ポマンダー』、つまり『香り玉』です。この香り玉は流行病の魔除けや厄除けとして使われてきました。
ポマンダーはフランスが発祥とされ、フランス語で「琥珀のリンゴ」を意味する「pomme d’ambre」が語源と言われています。
中世のベルサイユ宮殿にはトイレやお風呂に入る習慣がなく、悪臭や体臭を和らげるためにこのポマンダーを芳香剤として置いたり身に着けたりしていました。宮廷では、この香り玉「ポマンダー」はなくてはならないものでした。
歴史の変動が多かった中世ヨーロッパですが、王朝をはじめとしてハーブ愛好者が増え、古代のハーブの用途はさらに広がりました。
治療だけでなく、魔除け、料理、芳香にも使われ、その文化は多様で豊かに進化しました。
ハーブは日常生活のあらゆる場面で利用され、人々の生活に深く根付いていきました。